高峰秀子を知ってから興味を持ち
書籍を読ませてもらっている
そして上をようやく読んだ。
戦時を経験した人から話を聞くことは少ない
曾祖父ちゃんとかなら戦時を経験してそうだけど
もういないし、そういう話をするほど交流はなかった
だから、こうして書籍で
それも一般人というか芸能人ではあるから
真に一般人というわけではないけれども
芸能人から見ての戦時というのが
どういうものかを知ることもできた本書
歌の発声練習?のドレミファソラシドが
敵国の言葉だからハニホヘトイロハに変わったとか
逆にアメリカ軍は軍人に日本語の訓練をはじめ
一般人に対しても日本語研究を呼びかけていたという
まさに、敵を知り己を知ればというやつだな
日本軍が敵国の言葉だと横文字を禁止していた頃に
アメリカは逆に日本語を学んでいたなんて
暗号の解読とかもあるだろうけど
一般人に対しても呼びかけるところが役者が違うね
ものを教わるということは信心のようなもの
高峰さんが琴を教わった時
稽古は厳しく恐ろしかったと書いている
けれども、全身がビリビリするようなあの緊張感と
手応えには、ものを教わるという一種の恍惚感が確かにあったとある
「ものを教わる」ということは「信心」のようなもので
生半可な気持ちではできることものではないということを
宮城道雄を通して初めて知らされたという。
思えば師匠と弟子の間柄では
弟子が師匠を信じる、信仰的な心がないと
本気で稽古だの修行だの貫き通せないなと
確かに思った。
まさに本気と、この人と決めたロールモデル
それらが合わさると人は教えにより成長しそうだ
私が規範にしたいと思うような大人はこの中にいない
結髪部の鏡の前に座っていると
生身の女優たちの会話がイヤでも耳に入ってくる
姦しいどころの騒ぎではない
髪を結ってもらいながらセリフを暗記する声はまだしも
おのろけ話に嬌声をあげ
人の噂話に尾ひれをつけ
ヤキモチを焼き、人の足をひっぱり、たくみに自分を持ち上げ
やがてスタッフの品定めに話は飛び…
生意気盛の高峰さんは先輩を横目で睨みながら
私が規範にしたいと思うような「大人」は
この人たちの中にはいない、何処にいるかは知らないけれど
「大人」というのはこういう人たちのことでは
決してないと思っていた。という
いつの時代を生きる大人にも耳の痛い話ではなかろうか
そう、俺自身も規範にしたいと思う大人に出会ったことがないし
何よりそんな俺が大人になって
誰かの規範になれる存在になれたとも思っていない
高峰さんは若くして考え方が本当にすごい
彼女も色々と失敗はあっただろうけど
こうして知りもしない自分が
高峰秀子を通して人間学を学ばせてもらっている。
同じ演技を売るならこれほどの演技を
試写会で見た小島の春で
女医に背中を向けたまま演技するハンセン病患者役の杉村春子
それを見た高峰さんはカミナリに打たれたようなショックを受けたという
始終うしろ姿を見せながら、カン高いセリフだけで演技する
人間の背中にも顔がある
高峰さんが求めて、見たこともなかった芝居がここにあった
そして「同じ演技を売るなら、これほどの演技を売らなければ俳優ではない」と思ったという。
高峰さんは俳優を好きでやってるわけではなかったが
その仕事に対する姿勢は本当にプロそのものだった
先生は超一流がよい
発声練習を習いたいといった高峰さん
高い月謝を出して先生に習った。
「先生は超一流がよい」という
生徒が駄目であるほど優しく甘い教師は禁物で
上等で厳しい先生を選ぶのがよろしいと
二人の先生の訓練によって高峰さんの声は完全に声になった
自分への投資が目に見えて効果をあげつつあることを知り
高峰さんは自分で喜んだ
ほかに喜んでくれる人がいなかったから
自分で喜ぶよりしようがなかったという。
決断を迫られる問題に出くわす
そのたびに高峰さんは貧しい脳みそをかき回すようにして
自分の方向を決めた。
結果は成功も失敗も、傷つき泥まみれ恥もかいてきた
彼女は昼のために夜があるという中国のことわざが好き
苦労は苦労の為にするのではなく、
明日という光明に向かっての下塗りだと思わなければ
とてもじゃないが無数の「恥」をブラブラぶら下げて行きてなどゆけるものではないと。
高峰さんの中には常に二人の自分がいるという
怠け者の自分、なんとか帳尻合わせようとサーカスの団長のようにムチをふる自分
発声練習を思いついたのは珍しく怠け者の自分だったという
もしかしたら小島の春を見ていた私の隣に
サーカス団長の私がいて杉村春小が映ったとたんに
ムチで私の尻をひっぱたいたかもしれないが
自分の演技を見直して
怠け者の自分も動き出したのかもしれない
人間誰しも怠け者と団長の自分がいると思う
俺も怠け者の割合が高い気がするし
サーカスの団長が働いたかと思うくらい
自分を奮い立たせたり追い込んだりした経験が思いつかない
たとえ恥をかいても光明への下塗り
視点が未来にある
これは現代人の多くが失っている観点ではなかろうか
きっと未来は明るい昼になる
俺もそう思って恥をぶら下げてみよう
演る以上はプロに徹する
高峰さんには「どうせ演るなら、他人よりうまく演ろう」
そうした気持ちはあったが
役者として悩んだことはなく、馴れることに馴れすぎ
勉強を怠った自分が心から恥ずかしいと思うやりとり
山本嘉次郎との会話によって彼女はそう思えた
俳優は普通の人より2倍も3倍もタクワンを臭いと感じなきゃダメだ
なんでもいいから興味を持って見てごらんと
どうしてだろう?なぜだろう?って
考えるというのはワリと間が持つ
そうすると世の中そんなにつまんなくもないよと
高峰さんは好きも嫌いも仕事と割り切って
演る以上はプロに徹しようと
持てない興味もつとめて持とう
人間嫌いを返上して、もっと人間を知ろう
タクワンの臭みを他人の5倍10倍感じるようになろうと
目から鱗が落ちたという
俺も人が好きかと言われるとうーんとなる
自分だけの心で人を好きになった記憶がない
誰かを好きだと思ったことはあるが
ぶっちゃけそれは友達が◯◯のこと気になってるとか
好きって言ってるのを聞いて
ふーんって観察してみたら好きになっただけで
自分が好きになったのとはちょっと違うと今も思う
そう、他人に興味がなくて
人の話を聞いて関心を向けてみたらってだけである
外に対して興味を持つことも
人を好きだという気持ちも
自分には不足しているように思う。
高峰さんでもそうなのだから
現代人でもそうであっても不思議ではない
一つ違うのは高峰さんは人間学マスター
プロとして外に興味を持つことに決めた
そしてそれすなわち人間にも興味を持つことも同じである
高峰さんはそれが俳優としての演技に活かされていくが
では我々は色々なことに興味を持ち
人に興味を持ったところでどうなるのだろうか?
わからない、わからないが
人間としての成長や感性の豊かさにはつながると思う
高峰さんのこのやる気を
爪の先くらいでいいから自分にもインストールしたい
高峰秀子という人間学は学ぶところが多すぎる
過去も未来もこうした人は稀ではないかと思う
昔の人だからデキた人ばかりではないのは
結髪部の他の女優の会話から見てもわかるだろう
むしろ今の人と話してる内容に大差なさそうだ
人間として成長するには
こうしてデキた人から学ぶしかない
何しろ周りを見回しても
お手本となる大人はそのへんにいないのだから…
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