以前から購入していてちまちま読んで
ようやく私の中の日本軍上巻を読み終えた。
正直、絶対に今の人には書けない内容
実際に軍隊にいた山本さんだから書けた内容だった。
山本さんは百人斬りは創作記事と言っていた。
実際に創作だったかはもう現代の誰にもわからない
残された記事なども真実かどうかわかりようもない
wikiには2004年に305人斬りの記事が再発見されたというが
これも当初に作った創作をその後も使ったと考えられると
創作は否定されたとも俺は思えない。
何しろ当時は英雄扱いだったわけだから
別の特派員があのお二人ですよねと言ったら
得意げに305人斬りの話をしても不思議ではないだろう。
持ち上げられて、故郷や家族も誇らしく思い
2年後に別の特派員に「いや…あれ嘘話なんすよ」とは
口が裂けても言えないのは誰しも想像できるだろう。
だから俺は別の特派員にも話してたから
一方的な創作が否定されたとは思わない。
嘘が嘘とバレるまで本当のことは言えないのと同じく
処刑されるまで嘘だとは言えなかった
そして世間はそれを信じてくれなかっただけだろう
その証明も現代に生きる人間にはできやしない
実際にあったとも、創作だったとも
もう既に誰にも証明しようがない。
あとはあの世で公正な裁きを閻魔様が下していると思うしかない。
だから、俺は過去から教訓を得るくらいしかできない。
当時いたるところに軍人以上に軍人らしく振る舞っていた人間がいたという。
自己顕示のために嘘をつく
山本さん的には浅海特派員は当時多くいた人の1人という
特派員が銃弾が飛来する中にいたというのであれば
肉薄攻撃を受けている砲兵の断末魔も描写できただろうということだった
軍人以上に軍人らしく振る舞う人たち
ここからは気になってなるほどと思ったフレーズ紹介
現代で考えても、軍人以上に軍人らしく振る舞うというのは
警察以上に警察らしく振る舞う自粛警察とか
専門家以上に専門家らしく発言する人間
と考えれば容易に想像がつく。
特に567渦では警察以上に警察らしく振る舞ったのが自粛警察で
営業妨害まがいのことをやっていた人もいる
本人は正義感から行動しているからタチが悪い
しかし、彼らは警察ではない何の権限もない一般市民だった。
軍隊は徹底した縦社会
徹底した縦社会だからこそ
その矛盾をついて行動できたというのも興味深い
ナナメから命令がくることは絶対にないという。
第一大隊長が命令できるのは自分の部下中隊だけであり
大隊長と言えども自分の部下ではない
第三大隊の中隊に命令を下すことはできない。
第一大隊長ができるのは縦に下へ命令することと
横で第三大隊長と連絡をすることだけ。
直属上官の命令は直ちに朕の命令という言葉も
上官の命令は絶対ということだが
逆に言えば上官の命令を遂行するためなら
何をしても許されるということになる矛盾があるという
ガソリン節約のために、将校や兵士のヒッチハイクは
必ず乗せねばならないという師団命令であろうとも
部隊命令により乗せてはならないと言われているので
乗せられませんと拒否していたという。
砲弾を輸送するために1隻奪取した時に
将官クラスに捕まってしまい
船を戻さないなら憲兵隊に引き渡すと言われた時も
山本さんは部隊長から貰っていた、あらゆる手段を用いて
輸送命令を遂行せよという作戦命令を見せると解決した
部隊長の命令は上官天皇の命令
天皇の命令を遂行中であるため、直属上官の朕の命令が絶対優先
天皇の命令を妨害するなら、たとえ将官であろうと排除に遠慮しませんよということになる。
それくらい縦の命令は絶対で
たとえ将官であろうともナナメである以上は
命令を突っぱねる抜け道があるのが縦の矛盾だった。
現代で言えば支店長同士は連絡を取れるが
A支店の店長からB支店の従業員に直接命令が来ることはまずない
そういうのに似ているかもしれない。
戦車よりブルドーザーが怖い
当時、山本さんたちは戦車よりブルドーザーを怖がったという。
正直、言われてみれば当たり前なのだが
戦車とブルドーザーどちらが怖いですかと言われて
ブルドーザーと答える人はそういないだろう
この質問だと1on1で考えてしまうが
戦場では1on1ではない。
戦車とブルドーザー両方があって、どちらから先に叩くかという話である。
ブルドーザーがガンガン戦車道と自動車道を造るから
戦車よりブルドーザーを叩かにゃアカンということらしい。
確かにいかに戦車でも道がブルドーザーで造られているほうが通りやすい。
確かにそういう意味では砲撃能力はなくとも
ブルドーザーの支援力というのは非常に大きい
兵士にとって戦車道を造るブルドーザーの方が怖いというのもわかる。
コウモリ傘もカザグルマも兵器の一つ
砲撃能力がないブルドーザーのように
攻撃能力があるだけが兵器の条件ではない
砲兵の兵器にはコウモリ傘があった。
そういうと笑い話に兵士たちの間でもなったようだが
これは冗談ではなく、雨天の観測に
湿気を嫌う機材を濡らさぬための必需品だったという。
たかが傘、されど観測に必要なサポート役。
そしてカザグルマ
山本さんが新潟の射撃場の小高い丘で
風向、風速を測定していると
子供を連れた農婦が子供に対して
「この兵隊さんイイネーエ、カザグルマで遊んでるよ」
と耳にしてたのしい気分になったと書いてある。
しかし、実際には砲兵が風向、風速を測定することは
狙撃手がスコープで照準を合わせているのと同じことだという。
むしろ、それより恐ろしいことだという。
しかしカザグルマでは旗から見れば遊んでいるようにしか見えない。
この風向風速計が恐ろしい殺人兵器だとは誰も思わないと。
これもなるほどなと。
確かにカザグルマだけでは何の攻撃力もない
しかし、それが砲撃に必要な風向風速を測定しているのなら
砲撃のサポートとして必須の兵器と言える。
どうしても単体で考えると傘もカザグルマも殺戮兵器ではない
しかし、攻撃をするために必要な情報を集めるという点では
攻撃兵器に必要な兵器と言えるだろう。
虚報の大本営発表
これは現代でも使われてそうな感じ
大本営発表、今では虚報の意味合いで言われることがあるが
虚報とは決して内容が事実ではない知らせではないという。
この本質を見誤ることこそ、虚報の思い通りであると。
山本さん曰く、虚報とは
発表された部分と事実にどれだけの誤差があったかではなく
入手した情報のうち、どれを発表し
どれを隠し、その隠した部分をどう処置したか
発表部分をどれだけ装飾したかという問題だと言う。
これは本当にその通りだと思う。
虚報、今で言われる大本営発表は
その情報が正確かどうかだけ見ても意味がない
例えば知人が1000万円の売上を達成しましたァー!
と言ったとする(数字は1億でも1兆でも何でも良い)
これだけ聞くとすごい!ってなると思う。
上司ならお前に仕事を任せようってなるかもしれない
そう、これが虚報である。
どういうこと?ってなるかもしれない。
1000万円の売上嘘だったの?みたいな
でも調べると知人は1000万円の売上を達成していた。
じゃあ嘘じゃないじゃんってなるかもしれないが
虚報とは発表された話の正確性ではない。
発表していない情報があることこそが虚報なのだ。
そう知人は利益を言っていないのである。
1000万円の売上は事実だ、しかし赤字は100万となると
そういう人に仕事を任せようとはならない。
戦場で言えば部下から報告があり
敵に与えた損害は以下の通りですと戦果を報告する
その報告に一切誤差がなかったとしても
我が方の損害情報が欠落していると虚報になるという。
この報告はどれだけ丹念に事実と照合しても
事実なら虚報の証拠は何一つ出てこない。
しかし見たまま聞いたままの情報には誤差がないので
虚報の責任は免れるという。
虚報とは情報が正しいかどうかではなく
どの情報を伝えていないか、隠しているか
隠した部分をどう処置して発表した部分をどう装飾するか
色々と考えると本当に納得できる。
現代の会社でも悪い報告ができる雰囲気の会社は伸びると言われる。
悪い報告ができないということは
我が軍の損害を伝えられずに隠し
戦果だけを報告してしまう虚報と同じ。
結果的に悪い報告がない状態で舵取りをすると
戦争の作戦も会社の経営も間違った方向に行くのも変わらない
そしてそれは悪い報告をしてはいけない空気や社風のせいだが
会社の上役は部下から聞いたとおりの情報を信じたからだと
虚報の原因は自分にはなく、ちゃんと言わない部下のせいだと責任転嫁できてしまう。
虚報ほど発表された部分は正確か
あるいは正確だという印象を与えるように構成されている
この関係は非常に面白い
虚報ではないかと疑われだすと
虚報の発表者は必ず証人を連れてくるという。
大本営発表で言えば、おかしいと人々が感じだすと
必ず敵艦を轟沈した人間や敵機を撃墜した人間を登場させる
虚報は事実との誤差ではないから
発表した部分の証人がいるのは当然である。
それをわざわざやるというのはむしろ虚報であると考えたほうが良い。
現代人も得られる知識が膨大になってきた
そして大本営発表というとやはり国や自治体が今では該当するだろう。
国や医師会が発表している情報は事実かどうかも重要かもしれないが
実際には何を隠しているかを考える力を養う方が良いのかもしれない。
現代人も経験しているはずだ
本日の感染者は何千人何万人ですと発表し
その数字は事実であっても
死亡者が何人、治った人が何人とは発表しなかった。
恐怖を煽る為に感染者数だけを発表する
他に必要な情報は意図的に出さない。
これも虚報だったと言えよう。
あの頃は自粛警察など他人の行動を押さえつけようという圧力が強かった。
県外ナンバーが標的にされ、県内在住者ですという表記をする車もあったくらいだ。
日本の行動規制は法による強制ではなかったが
警察よりも警察らしい人々が
自主的に取り締まり攻撃していた。
都合の良い情報だけ出し
都合の悪い情報は隠すというのは
いつの世も人間のサガかもしれない。
俺だって仕事でちょっとやらかしたことがあっても
社長が読む報告書にいちいち書いたりしないし
虚報とは発表された情報の正確さを問うことではない
隠した情報があるか、隠した部分をどう処置したか
発表した部分をどう装飾したかに注目していきたい。
謎のベンダサン
ユダヤ人のベンダサンの話が出てくる
wikiではベンダサンは山本さんのペンネームだとなっている。
実在する人物かわからない
ペンネームだとしてもなぜユダヤ人なのかもわからん
ベンダサン論の百人斬り競争は
時間を競う競技から数を競う競技にすり替わってる
故にこの話はフィクションだということである
これはなるほどという面がある。
現代でもごく自然に論点のすり替えが行われることがある
これは具体と抽象の考え方が非常に重要かもしれない。
抽象的に考えないと
この話があの話になってないかと気付きにくい。
すり替えが行われるということは
そこに何らかの意図があるということである。
こうした事も本書から得られた教訓であった。
親孝行がしたい、嫁さんが欲しいの真意
当時の親孝行がしたいという言葉は
現代と同じ意味ではないというのは興味深かった。
軍隊生活では目に映るのはカーキ色で
世俗とはかけ離れた環境で過ごすことになる。
そんな中に特派員という世俗の存在がやってきて
嫁さんを世話してくれよ~と言うのは
本気で嫁の紹介をして欲しいのではなく
軍隊ではない日常生活への憧れからくるものではという
そこで特派員があなたが勇士として活躍すれば
嫁候補なんて引く手あまたと言う
これが兵士にとってはすごく甘い誘惑だった
もう有頂天になってホラを吹いてしまうほどに。
米兵は女性を見るとヒュウと口笛を吹く
日本兵は奇声をあげたという
これ想像がつくわ…オタクがぅぉぉって
思わず唸ってしまうみたいな感じでしょ
俺も昔ゲーム雑誌読んでて
予期せぬ続編情報を見た時にこんな感じになった。
そして米兵は娯楽として踊っていたようだが
日本兵は身体を使ってそうした娯楽をするのではなく
食後の談笑のように舌が踊っていたという。
それこそ夢物語でも語るのが楽しかったみたいな。
娯楽はそれくらいしかなかったと。
確かに今なら美味しい物を食べるのも娯楽の一つだけど
兵士たちが食べるのはそうした美味しさは期待できないし
会話の花を咲かせるくらいしか楽しみがないのは想像できる
嫁が欲しいヨナというのは
未来の日常に思いを馳せているという。
軍人は帰りたいなんて泣き言は言えないので
日常に帰りたいという意味が込められていたそうな
そして嫁というのはこれから先の展望であったと
逆に親孝行がしたいというのは
どちらかというと過去の日常を見ていると
家に帰りたい、親元に帰りたい意味合いが込められていると
帰りたいと泣き言を言えばたるんどると叱られるが
親孝行がしたいというのは軟弱者と言われない
兵士たちにとっての暗喩に近いものであった。
山本さんは死と近くにいる兵士たちの
お母さんや親孝行という言葉は
今の人が考える以上に深い意味があったという。
これは言われてみれば本当にわかる気がする
帰りたいとか辞めたいという単語を禁止すれば
親孝行したいと言い換えて気持ちを表現するしかない
兵士たちの精一杯のレジスタンス
実際には親孝行したいとは感心だ
お国の為に戦うのが一番の親孝行であると
言われてしまうだろうが
親孝行したいとは何事だと咎められることはない。
特攻隊の遺書なんかも読んでも親孝行とか
お母さんという単語が出てくる。
これは特攻隊という結末が約束された人の遺書だから
読む人も故郷に未練があったと予測できる。
つまり日常会話で出てくる親孝行したいとは
受けても前提が違うので察することができる。
上巻では知らなかった軍隊の性質と
何より興味深かったのは虚報についての考査。
これからは俺も大本営発表とか
虚報を見たら、何を隠しているのか
隠したのをどう処置したか、発表をどう装飾したかを
気にしてみたいと思う。
他にもまだ前線に行く前の学舎?で
普通の日記とは別に私物の日記というものがあって
それが見つかると退学になるから
書いているなら処分したほうが良いという先輩の話があった。
昔の人はそんなリスクを背負ってまで
日記を書きたいと思っていたのだなぁと思った。
私物の日記をつけていたら退学なんてすごい時代だ。
現代人は日記というツールは用いなくなったけど
SNSがその代わりになっているのかな?
自分のようにブログという日記になっている人もいるか
そう考えると何かを記すというのは人の欲求なのかもしれない
ちなみに上下巻ともに中古で購入したが
上巻は新装版で2022年に出てた
なるほど、それで定価1360円+税か
下巻は1983年5月が第一刷で
購入したのは2001年8月第八刷だった。
これは定価476円+税
1983年には+税はなかっただろうけど
文庫もかなり値上がったという印象。
ただ、新装版の方が文字が少し大きく読みやすい
文字列が1列ほど少なくなるだけでも
文字は少し大きくできると実感。
まぁまだ第八刷のも読める方だけどね
別の本とかだと、文庫でびっしり文字詰まってるのあるし
もうあれは読む気にならない。
読みやすさって本当に大事だなと。
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