PR

スラスラ読める本、読めない本

記事内に広告が含まれています。

本を読むときにスラスラ読めるものと読めないものがある

中には最初はスラスラ読めたのに
途中からスラスラ読めなくなるものもある

これは読みやすいかどうかではなく
今自分に必要かどうかのセンサーの一部だと思っている

もちろん難解だとか専門用語があるとか
いちいち脳のメモリを消費する文章であることもあろう
頭で読む本はメモリ消費が高い

しかし、趣味の読書であれば
無理やり読もうとしなくて良いのではないだろうか

先日、ネーミングの強化書を読んだ。
興味深い事例も多く勉強になったが
割とスラスラ読めていたと思ったら
気付くとスラスラ読めなくなっていた。

ぶっちゃけ今の自分には必要のない部分は
読めるけれども読み進める足が止まる
頭で無理やり読んでる感じだった。

そういうのもあって
今スラスラ読めるor遅くても読み進めるのが苦にならない
こうした文は今の自分に必要な栄養素だと感じる。

逆にどれだけ有益なことが書いてあっても
無理やり読まないといけないのは
今の自分には必要ないということだろう

ぶっちゃけ俺はかなり読んでない本がある。
人のブログや評価を見て
有益そうな本をいっぱい買った。
ビジネス系の本が結構ある。

ただ、どれもさほど読む気にならないので
本棚の飾りと化してる。

もちろん、読んで得られる要素はあるだろう。
しかし気づけば積読になってる
ちょっと読んで止まってる本もある。

そこで沢木耕太郎の
世界は使われなかった人生であふれてる
これを読んだ。

内容は映画評といったものだが
これが面白い。

出世のない会社のリーマンにとって
ビジネス書で得たことを活用する機会は少ない
ってかほとんどないと言ってもいい。
メリットとしてはメンタル的に成長するくらいだ。

この映画評も日常生活で使える情報はないだろう
まぁ、話のネタくらいにはなるかもしれないが
それはビジネス書で得られる情報でも同じこと

それでも俺はこの沢木氏の映画評の方が
読み終わって心の栄養になったと強く感じる。

具体的にコレといったものはない
読んだことによって言葉では言い表せない何かが
自分の心の土壌に染みる感覚。
それはシャワーではなく一滴かもしれない
それでも自分の心の感性を育てる土壌にとっては
良いエッセンスを得られたように感じる。

本を読んで得られることなど9割以上ない
それでも漠然とした感覚が心に残ると
それが自分自身を育てる栄養素になると思っている。

俺は割と本は最初から最後まで
1文字全部ちゃんと読む方だった
読書術とかの本を読んで学んでも
それを実践できることはなかった

しかし、ここにきてようやく
スラスラ読めない文章は
今の自分にとって必要ないところだと
ようやく腹落ちしてきた。

もちろん、読めば有益な情報が書いてあるだろう
だが俺の感覚が必要ないと判断しているのならば
そこを読み飛ばす…のはまだLvがいると思うから
流し読みするくらいでいいんじゃないかと
そう思うようになってきた。

それで気になったことがあったのなら
そこからじっくり読めば良い。

こうした感性の芽生えや気付きも
今まで得た本のエッセンスが土壌に染み込んでるからだ
読書術とかで読んでたことが
ようやく気付きを得て腹落ちするみたいな

読みやすいか読み難いか
読んでて面白いかつまらないか
興味が持てる内容かどうか
割とこのあたりの感覚を大事にして
改めて読書に向き合ってみたいと思う。

今読んでいる本はちょっとずつしか読めてないが
決して退屈ではない。
むしろ興味深い本がある。
ビジネス書というか実用書なので
物語小説と違って一気読みみたいなことはないが
気が向いた時に少しずつ読み進めてる感じだ。

今すぐ読み進めたいと思うほどじゃないのに
俺がその本を読んでいるのは
興味深く読んでいて面白いからだ。
読むまでが長いが読めば遅くではあるがスラスラ読める

あんまり本を読めていなかったけれども
やっぱり本って良いなと改めて思うのであった。

読む人は喫茶店とか行くんだろうけど
喫茶店って苦手というかわからないんだよね
一品注文してどれだけいれば良いのかとか
食べ終わったらすぐ出ていかなきゃと思うので
居座るというのに何か抵抗あるんだよね

サードプレイスっていっても
居座って注文が少ない客とか
さほどお店にとって良い客じゃないよねと思うし
喫茶店を利用してる人たちに指南して欲しいくらい

もし喫茶店が利用できたら
本だけ持って読む為の空間としては最高だと思うね
家だと誘惑が多すぎるから
気が向いた時にちまちましか読めない。

コメント

タイトルとURLをコピーしました