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日本の喜劇人を読んでの感想

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かつて日本にいた喜劇人の本を読んだ。
エノケン、ロッパなどなど
時代の移り変わりなどなど
芸人というか喜劇人の歴史も色々あるのだなと。

最近の読書の方針として
もうノート書かずにブログでいっかなってなってる。
なぜならノートは書くのがめんd…ではなく
本当に文中の文字を抜き出すだけになりがち
でもノート書くのが面倒なのはそのスタイルのせいなんだよね
それならブログみたいに要点を絞って書いた方が良いのかな。
どうせならノートも書くというのはしたいし…

さて、日本の喜劇人だが
内容を並び立てる読書感想文でもあるまいし
自分がこれはと思ったのだけを記していきたい。

不平の毒に人生肯定のオブラートを着せる

天外という人は、著者の年代からして
恐らく2代目天外のことだと思うが
彼は脳出血に倒れる前に
シュールやナンセンス一本槍では客はつかない
涙と笑いがあれば、安全ですと言ったという。

決して新喜劇の看板である涙と笑いだけで良いわけではなく
かといってシュールとナンセンスだけでも客はつかない
俺はシュールとナンセンスに涙と笑いのエッセンスと解釈した。

天外は喜劇の作者は世の中に不平持ってないといけない
その毒に、人生肯定のオブラートを着せると。

これは読み進めると更になるほどなと思うのであった。

戦前、戦時の観客

戦前、戦時の東京一の盛り場であった浅草に
詰めかけていた観客の多くは
労働者、使用人、小僧のたぐいであって
日常でのべつ差別感を味わっていた層であるという。

だからこそ、小男エノケンによる大男制服や
身体障害者めいた動きのエンタツの踊りを見て
精神的に解放されたのであったと著者は分析する。

小学校卒業程度の観客の頭よりも
働きが鈍い主人公が最後に勝つというのは
もっとも大衆受けするパターンであったと。

この種のヴォードヴィルを生き生きとさせるには
日常的に抑圧された観客が必要だったと。
観客側が精神的にハングリーであり
本能的に笑いを求めていなければヴォードヴィルは成立しない。
著者個人の体験から見ても、あれは日常の緊張を
解きほぐしにいく場であったという。

しかし時は流れ戦乱の混乱から高度成長期にかけ
植木等が「こつこつやる奴ぁご苦労さん!」
と歌いながら走りにけて行った後に残されたのは
高度成長以降の飢えの感覚を知らず
豊かさの中でのたのしみの見つけ方
ハングリーでなくなった時の文化のありようがわからない大衆であったという。

ハングリーでない状態を経験したことがないため
豊かになったとたんに、何をしたらいいかわからず
途方に暮れた人々であった。

そう考えるとこの大衆受けというのは
時代と共に移り変わっていくのだなと。
しかし変わらないものもある。

例えば小男エノケンが大男を征服するというのは
現代で言えばいじめられっ子が、いじめっ子に優位に立つとスカッとするような物語ではなかろうか?
実際にエノケンの舞台とか見たことないので
本から得た印象からだけど。

そして最近では転生モノがよく目につく。

フィルムであれ、舞台であれ抑圧された観客が必要なのは
こうしたジャンルでもそうではないだろうか

転生モノの核は読み手が抑圧されたリアルから
解き放ってくれる場所だと思う。
生まれ変わりたい、別の世界で新しい人生を送りたい
でも実際にそんなことはできない
だからこそ、転生モノというジャンルは羽ばたいたんだと思う。
これは抑圧された観客、つまり読み手が求めたと言える。

今は差別感情がタブー視されるので
どこか身体障害者めいた動きで笑いを取るエンタツは
現代では作り出しにくいのではないかと作者は考える。
比較的現代ですらLGBTのGをとんねるずがネタにすると
それが古い感性と問題視されたということで
観客側の価値観が変わって、差別的笑いは作りにくくなってる。
しかしなぜかデブとかハゲとかブスなどは
まだ笑いのネタとして活用されている気もするが
それもいずれはタブーな笑いになるかもしれないな。
実際に俺はそういうので笑えないし。

舞台は観客あってのもの。
どうやら高度成長期で若者が金と暇を持て余した時
芝居を観に来て、笑う場面でもないのに
ゲラゲラ笑う若者が来るようになったという。

そうなると、客席が舞台に向かって笑わせろという
無言の圧力を加えつつあったという。

当時の若者はTVを見ているだけでは知的生活ではないから
小劇場やテント演劇に行く方がカッコがいいと集まってきたらしい。

そこには作者の意図に思いをいたす力も
芸の巧拙を見る眼は無論なかった。
ぼんやり見て言い回しや流行語でケタケタ笑うだけ

むっつり見るのもどうかと思うが
始終ケタケタ笑うのは異常で
情報誌を片手に時間つぶしをするこの大衆が
舞台に無言の圧力を加えたのは間違いないと著者は言う。

日本経済の失われた30年とかもそうだけど
色々外的要因もあるとはいえ
学校におけるサラリーマン量産教育の奴隷化
豊かになった上に、教育からもハングリー精神が失われた。
一発当てるよりも、堅実に大企業や公務員
やりたいことをやるよりも
我慢して堅実に働く

俺が人生における問題点と考えるのもそこである
自らの中にハングリー精神というものがあまり感じ取れない。
豊かで何不自由なく育ってきたので
これといって望むこともなく
今の平和な暮らしがずっと続けばいいなー
くらいにしか考えてこなかった。

もちろん現代においても
劣等感を抱いて育ってきた人や
劣悪な幼少期を過ごしてきた人は
ガッツがあるというかハングリー精神があり
それで何者かに成長していることがある

今でも芸人とかは成功してやるって想いで
ハングリーに生きていると思う。
そして日本の喜劇人を読んで
昔は観る側もハングリーに生きていた時代があったと知る。

そしてそうした観る人たちが舞台を作る側面もある
今流行っているモノ、歌、ジャンル、お笑いなどを作るのは
観る側も大きな役割を果たしている。

俺は今どんなお笑いが流行っているかしらない。
だから知っている範囲で転生モノが流行っているのは
読み手が求めている世界観だと思ったし
昔にいた照れ隠しで手を出すツンデレヒロインが
今は暴力系と言われてあまり見なくなったり
流行り廃りは仕掛ける側だけでなく
やはり大衆の意識の変化で起こるものなんだなと
これは無意識的にわかっていても
意識的に新たな視点を得た気分であった。

そして昔も今も差別感を味わされている人が
芝居や物語でスカっと解放感を得るためそうした世界を求める
ここの本質は変わらないんだなと。
変わるのは大衆が求めている世界観ということかな
果たして次はどんなジャンルが流行るのだろうか
ハングリーさを失い、異世界の果てには???
このまま異世界でのバリエーション重視になるのだろうか
まさに今異世界で世界を救うみたいな王道から
追放されてのんびりみたいな
でも陰の実力者だからたまにすごいと思われるみたいな
そんな異世界ジャンルが色々広がってる気がする。
今のところ、現実の未来が希望を持てる兆しがないから
こうしたジャンルも別世界、異世界、ゲームの世界が主流なのかなと
今後もこうした視点も加えて世の中を観察してみたい

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