本を読むようになってまだ年数は浅く
ビジネス書から読書に入ったので、実用書や自叙伝を好んでいた。
エッセイというのは手にしてこなかったが
読んでもさほど響かないという印象だった。
しかし、高峰秀子さんは事前に高峰秀子の流儀を読んでいたので
彼女に対する理解も深まっていた。
そのおかげかエッセイを読んでもすんなり入ってきた。
エッセイの作者に対する俺の解像度が低ければ
なぜこの人はこんな事を言っているのかの理解も浅くなる。
自分がエッセイを楽しむには
この人はどんな人なのかを知る必要があったようだ。
本人への興味関心から、言っていることが理解できるようになる。
ベストエッセイに書かれていたことで
特に刺さったことをここでは書き記しておきたい。
精神的スポンサー
「世の中には「ただその人が存在する」というだけで
なんとなく心強く、心の支えになる人がいる」
高峰さんは養母などは精神的な支えどころか
寄りかかってくる重荷の存在だった。
ただ、精神的スポンサーなる人を見つけることはできていたようだ。
思えばこの世にあの人がいるだけで心の支えになる
そんな人がいるか考えたこともなかった。
自分がそうした支えを必要とする環境ではなかったのかもしれないが
そう思える人に出会ってないかもしれない。
高峰さんは積み重ねた教養と勉学にプラスされた「心の豊かさ」を
持つ人に心惹かれたという。
世間的に立派な人、偉い人と言われても
心に愛情のない人は高峰さんには立派にも偉くも見えないと。
そういう人は単なる学問のオバケでしかなかった。
思えば心の豊かさが現代では失われつつあるのかもしれない
心療内科や精神薬を必要としている数が増えてるとかなんとか
周りで精神的スポンサーを見つけるのは難しくなっているかもしれない。
逆に推し活という推しが精神的支えになっている人は増えたかも?
高峰さんも戦時中はブロマイドが兵隊たちに人気だったらしい
共に散るのは申し訳ないと、高峰さんの元に送り返されたものもあったとか。
兵隊は若い人間が多いから当時の高峰さんはアイドルのような存在だっただろう。
散るとわかっていて出かけるのは辛い。
高峰さんのブロマイドはそんな兵たちの心の支えになれたのではないだろうか…
そう思えば推し活でお金減っていくのに辞めたいのに辞められない人は
辞め時がないと言える。
投げ銭辞めたいけど辞められなくて自宅放火した人もニュースになっていた。
精神的スポンサーにひたすら貢ぐというのは
物質的に貧しくなると精神的豊かさも得られなくなる。
それは大金を投げ銭すると反応してくれるという見返りがあるからだと思う。
何の見返りも求めず施すのであればまだ違っただろう。
精神的支えを得られるはずが、精神的重荷に。
依存、のめり込みは怖いね。
美味いものを作るのは食べる私たちの舌
高峰さんの観察によれば「なんでもどうでもいい人」は
全てのことに情熱が薄いらしい。
仕事でもどうでもいい仕事になるだろうと。
自分も「何でも良いです」って言ってしまいがちなとこある
これはほんと思考停止と同じだなと気付かされた。
もしも、すごい人に外食に招待されたとして
あっ、自分なんでもいいんでって言ってしまいそう。
これって確かに招待した側から見ると困るよね
家庭でも何でも良いは相談のクズって言うし
これ食べたいって決めた方が招待しがいもあるかも。
高峰さんは食通という言葉は嫌いだが
もっと誰しもが食いしん坊になって
美味い、まずいをハッキリ言うようになってくれたら
そこらに売ってるちくわ一本でも今より美味しくなって行くと言っている。
それが美味いものを作るのはコックでも板前でもなく
それを食べる私たちの舌であると。
これは本当にそうだよね。美味いまずいもあるけれども
企業が美味しいよりただ安さと利益を追求しているのは
安い方を買う消費者に問題がある。
俺はもう添加物で誤魔化してる偽物は買わなくなった。
醤油もちゃんとした醤油を買ってるし
みりんもみりん風ではなく、アルコールに分類される本みりんを買う。
菓子パンだって一個100円~120円で買えるものではなく
倍くらい出してパン屋のクロワッサンとか本物を買う。
こうした本物を選ぶのが企業に対する消費者の返答になる。
安ければパチモンでもいいという舌が
これだけ本物とは違う安いだけの商品が溢れる原因だと思う。
俺はもうスーパーに売っているウインナーを買わなくなった。
今は無塩せきというか、無添加ウインナーを買っている。
昔は無添加ウインナーにパリッとして食感がなくて好きではなかった。
ただ、今ならその良さがわかるというか
素材そのものの美味しさを感じられるようになった。
県内にあるそういうウインナーを販売しているところで
親が買って出してくれてたことがあるが
あの時は(シャウエッセンの方がおいしーな…)と思ったものである。
舌が添加物に慣れすぎてたね。
今はもう無添加を買う比率が増えて
舌が正常化してきた。添加有りだと味が濃すぎるようになってきた。
知識で味わうのもあってか、素朴な美味しさというのがたまらない。
実家では未だに添加物のハムやウインナーが出てくる。
昔ならパクパクいっぱい食べていたが
今はもう手を付けなくなっている。
本当は家族にもそういうのは取らないで欲しいものだが
ここから先は知識が必要
そして理解してもらうのが難しい。
少なくともTV大好きで企業や政府は
庶民のことを考えてくれていると思っているうちは無理だろうね。
俺も3年前5年前の自分がそうだったからわかる。
昔の自分に添加物は危険性があるからやめようって言っても
聞く耳もたなかっただろうな。
だから、俺も無理強いできない。
俺が無添加にこだわるようになっているのを知っても
家族が買う物は特にかわらんし。
せめてラップを無添加ラップの方がいいよとか言って変えさせたくらい。
何というか何かのタイミングとかキッカケがないと
気にしすぎる人の拘りみたいになっちゃうのがね
このあたりはもう自分で気付くしかない。
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